死んでしまうのだろうか。
薄氷のように冷たく澄んだ空を眺めた。その張り詰めた果てを、鳥が鋭い声で突ついている。力を入れれば皹が入ってしまいそうな蒼は、しかしふてぶてしくこちらを見下ろしていた。気まぐれに素肌を引っ掻く風は冷たい。外気に晒された指先には冷気が張り付き、心もとない熱を奪っていく。
これほど気温が低くなるのは、時期的にはもう少し先であると茫洋と考えた。今年は去年よりも冬のおとないが早いのだろう。泥が詰まったように濁った頭で思索した。
右手の指に掛けたズシリとした重みがまた1つ、思考を憂いへと手招く。祖母のために買ったアップルパイの甘い香りが、いたずらに風に散る。

――しかし、やはり、死んでしまうのだろう。

帰路の途中には、大きな河と、その対岸を結ぶ橋がある。河の名前など記憶にはないが、それは海に繋がっていると聞いた。この河の水は、どちらかと言えば海水に近い。海に繋がっているというより、海から溢れ出した水が流れているのかもしれない。時折流れてくる潮の香りは、無為に街の中を包む。意味のない空想を連ね、私は腕に抱えた荷物を抱き締めた。もうこの風景も見納めだ。
来月までに、この街から離れることが決まった。新しい新居は、この河の果てである海の街にある。厳密には街というよりも、そのはずれにある小高い丘の上の別荘だ。遠い地方で大企業を営む従兄から借りたのだ。治安も良く、静かで穏やかな場所だと聞いている。
祖母が余生を送るには、良い場所だと思った。
街の中心部までは多少時間を必要とするが、私が足になれば問題ない。仕事の関係や離婚と再婚を繰り返す両親と距離を置くための理由に、私は独り暮らしであった祖母のもとに身を落ち着かせた。
祖母との暮らしはとても静かで、抑揚に欠けたものだった。祖母が口数少ない女性であることも、起因しているのだろう。しかし私を見て穏やかに微笑む表情は、不安に揺らぐ私をいつも安堵させた。目尻や口元に深く刻まれた皺も、枯れ木のようで実は暖かい手のひらも、どれもが日常として溶けて私を優しく包む。
祖母が好きなアップルパイを抱え、私はその甘ったるい日常の膜の中で呼吸を続けた。

視界の片隅で揺れた萌葱色に足を止める。先ほどから頭の中で反芻していた言葉の再生を停止する。早く帰ろうとも思うのだが、黙殺する勇気もなかった。
ちょうど橋の欄干から身を乗り出すように河を見下ろす人影に、冷えた空気を飲み込んだ。否応なしに連想される展開に眉をひそめる。まだ、十代後半の若い青年だ。控え目に辺りを見回す。しかし視界には彼以外の人影は映らなかった。
珍しく人の通りが少ない橋の上に、ふと今朝から何かの宣伝や演説をしていた団体が街に来ていたことを思い出した。街人は皆そちらへ行ってしまったのだろう。運の悪い場面に遭遇してしまった。躊躇うように一度深く呼吸を繰り返し、声をかけた。

「そこからだと、たぶん、飛び降りても死なない」
「!」
「この橋、そんなに高くはないから。この位置だと水位も溺れるほど深くなかったと思う」

緩慢な動作で瞳が向けられた。揺れる萌葱色の下で瞬く色は、青よりもずっと暗い色だ。静かに底で凍っている。真冬の凍り付いた湖のような瞳だった。
私を視界に収めるなり、彼は僅かに怪訝な色を貌に宿した。そして欄干から身を離し、河を指差し無表情で言葉を紡ぐ。

「……別に、身投げするつもりはないよ」
「!」
「ただトモダチに道を聞いていただけだ」

白く細い指に誘われ、そっと橋の下を覗き込む。水面から顔を出した2匹のバスラオが、口をパクパクと動かしていた。真っ赤なその目玉が私を知覚すると、小さな水音と波紋を立てて水中に身を翻した。水面を隔てて影が滑るように遠ざかっていく。

「バスラオだ……」
「……」
「だけど迂闊に近付くのは危ないのでしょう?」
「それは彼らが、と言いたいのかい?」
「うん、まあ」

いつの間にか見えなくなっていたバスラオの影に、煮え切らない返事を返した。危険だとは思う。しかし具体的に何がどうと聞かれても、事細かに答えるだけの思索をしたわけではなかった。ただ「なんとなく」バスラオが持つ牙や、図鑑に載っている凶暴性からそう感じた。言い換えるのならば、一般論というものだ。青年は私の答えを心底不快に感じたのか、その湖面の瞳が暗く濁る。僅かに歪んだ表情に、少しだけ気圧された。

「さっきの子は丁寧に道を教えてくれたよ」
「え……?」
「人間はいつもそうだね。彼らをデータ化して一般化する。そこに存在する個性を殺しているんだ。存在をカテゴライズして、1匹を総てと捉える。自分のアイデンティティを踏み荒らされることを厭うというのに、キミたちは平然と彼らからアイデンティティを剥奪していく」

つらつらと並べられる言葉を咀嚼するのに僅かな時間を要した。思いのほか早く紡がれた単語は、ひどく平坦に宙に霧散する。しかし彼の言葉は正論だ。ただあまりに偏見が固定したこの価値観では、失念してしまう。それに左右されない言葉たちに、この青年は独自の主張を持っているのだろうと茫洋と思った。初対面で無遠慮に主張を突きつけられることには戸惑うが、自然と納得してしまうだけの説得力がある。

「そう、ね。勝手に決めつけるのは、良くないよね」
「……」
「あ、でも道を聞いていたって、あれは」
「キミにも、聞こえないんだろう?」
「?」
「――声」

彼は空を見上げる。私もそれに倣って顔を上げた。
鳥が1羽、羽根をばたつかせて空を切っていった。





リ ヒ ト

鼓動の音を
掻き消すように泣き叫んだ








「今日、不思議な男の子に会ったんだよ」

アップルパイを切りながら、ロッキングチェアに座る祖母に語りかける。慎重に包丁を入れ、綺麗な直線でそれを2つに引き剥がした。サクリという暖かい音と甘い香りが空間を満たす感覚に、意識がしっとりと安堵感に溶けていくようだ。
切り取ったアップルパイをそっと皿に乗せ、薬缶の火を止める。ティーパックが寄りかかるティーカップの内側にお湯を注ぎ、それをテーブルへと運んだ。

「あまり話をしたわけではないのだけれど、ポケモンがきっと大好きなのかな。あの子が言っていたことは、確かに正しいと思った」

テーブルの上をスライドさせ、アップルパイと紅茶を差し出す。彼女はそれに目を細め、無音で唇で弧を描いた。それに笑みを返し、私もまた椅子に腰を下ろした。

「でも、なんだかヒトは嫌いみたい。そんな様子だった。……そういえば、今日は街でどこかの団体の演説か何かがあったんだよね」

フォークを飴色の生地に突き立てる。サクリと乾いた音を立て、パイの層がポロポロと崩れた。もしかしたらその団体の関係者なのかな、とティーカップの中の深い紅を覗き込みながら吐息を吐く。祖母は紅茶を静かに口に運び、微笑むだけであった。

「次の街でも来るのかな。……ああ、そういえば、来週までにあちらの家に荷物を送らないといけないから。新しい街、楽しみだね」

口に運んだものを咀嚼し、嚥下する。甘さが口内に広がるのを感じ、それごと紅茶を飲み下した。祖母は変わらず微笑みを浮かべたままだ。ゆっくりとした動作でフォークを指先で摘み、一番上に乗っている、キラキラとコーティングされた焼き林檎を口に運んだ。
その様子を見て、私は再び表情を綻ばせる。ロッキングチェアが僅かに軋んだ。

「あ……そういえば、角砂糖を買い忘れたんだ。私、これが食べ終わったらまた外に行ってくるね。片付けは私が後でするから大丈夫だよ」

ただ微笑むだけの祖母に笑いかける。別段なければ困るもの、というわけではなかった。ただ単に普段からあるものが切れていると、少し落ち着かない。引っ越し前に荷物を増やすこともないと思うが、あちらに着いたら荷物の整理で買い物に行きにくくなる。補充できるものはしておいても、損はないだろう。
皿の上の残り少ないアップルパイを口に強引に押し込み、紅茶で流し込む。そして軽く上着を羽織り、財布を持って再び家を出た。

しかし私の足は、家から出ると同時に止まらざるを得なくなる。ドアを開けた数メートル先に、先ほど出会った青年が立っていた。彼の肩にはマメパトが留まっており、キョロキョロと首を動かしている。
おもむろに湖面の瞳が向けられ、私は会釈した。しかし彼は依然として無表情のままだ。それについ訝しく表情を歪めると、彼は目を細め、抑揚に欠けた声で言葉を続けた。

「キミは残酷なことをしているね」
「? どういうことかな」
「……わからないのか。可哀想に」

肩に乗ったマメパトを撫で、彼はひどく冷たい色を瞳に宿した。マメパトは今一度首を動かした後に、バサバサと慌ただしい羽音を立ててどこかへ飛んでいく。それを視界の片隅に収めながら、腹の底でふつりと湧いた感情に眉をひそめる。彼はそんな私の様子を意に介するわけでもなく言葉を続けた。

「やはりダメだ。こんな世界では、シアワセは得られない」
「……ね、貴方は、どこから来たの」
「……」
「帰った方がいいよ。少なくとも私は貴方が思いたい世界で生きてないだろうから」
「……理解しかねる言葉だ」
「私だって貴方が言っていることがよくわからない。言葉が通じないってことは、そもそもが違うのよ」
「言語としては理解しているよ」
「私が言いたいことは、そうではないってこと、わかる……?」

風が吹き抜け、その冷たさに肌が軋む。彼の瞳にある翳りが深みを増す。
価値観の違いというものは、当たり前のように存在する。そこに齟齬が生まれることも必然である。そこで我を通せば衝突するのは必然だ。相手を傷つけることも、自分自身が傷付くこともある。逆に許容すれば、蟠りが仮に残ったとしても、傷付くことはない。
拒絶か、受動か、どちらにせよ、すっきりとした顛末は難しい。
青年は目深に被った帽子の鍔を更に下げ、表情を隠した。

「それじゃあ、私はこれで。……さよなら」
「……」

もう一度頭を下げ、私は止めていた足を進めた。

「ボクには帰る場所なんて、何処にもない」

背中に触れた言葉を敢えて黙殺し、私は早足でその場を去った。





20111029

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